2015年6月21日日曜日

庭のネジバナ 

今年のネジバナは豊作で、庭の芝生にも結構咲いてくれました。
可憐です。

2015年6月7日日曜日

現代の「五人組」、スマホ版相互監視制度


 新聞で見つけた『次はキミの番かもしれない……本当に怖いスマホの話』金の星社20153月を読んだ。今の子どもたちにとって、どういう行為が「いけないもの」とされるかは、少しわかった。おばあちゃんちに行くときに、持って行くつもりだったスマホを忘れて、友達と数日間連絡が取れないと、死んだことにされてしまう。学校から帰って、ちょっとは勉強しようとか、今日は眠いとかで、スマホでのおしゃべりに参加できないと、裏切り者みたいに扱われる。「そんなのが、友達?」と、腹立たしい。
 それでは、彼らにとって、何が「望ましい在り方」かということは、どうもわからなかった。上記の情報から消去法で行くと、学校の長い拘束時間が終わって、やっと一人になれたのに、ココロは友達から離れず、いつもスマホにはりついて、つながっていないといけない。抜けがけの勉強で成績を上げてしまったり、抜けがけの睡眠できれいなお肌になったりしたらアウト。そうならないために、自分が今何をしているかを、細かく申告しないといけない…ってこれ、違うよね。活字だけでは何もわからなくて、劇画的理解に走っただけだよね。。
 若いお母さんが、「子どもが起きている間は、スマホに触らないようにしています」とのことで、へえー、毅然としておられてすてきと思ったら、「そういうことをすると、仲間内から『ちょっと変な人(アブナイ人のニュアンスあり)』に見られるのはわかっている。でも私の友達は『彼女はそういう人』と思ってくれているから、助かる」。
 お人柄のよい彼女は、スマホを介した人間関係も、うまくいっている。でも大人の間でさえ、「子どもなの?私たちなの?どっち?」みたいな迫り方が、まかり通っている場もあるらしいと、逆にわかってしまった。人間関係その他の「程度問題」を学習中の子どもたちには、このあたりの加減が、ほんとうに難しくて、ぐちゃぐちゃになってしまっているのだろう。
 スマホコミュニティはおっかないもんだなあ、そんなに「みんなと一緒」じゃないとダメなのかな?と、他人事のように考えていたら、私も小5から中1ぐらいまで、「一人でトイレに行けない症候群」を患う、ごくふつうの女の子だったのを思い出した(男の子には多分わからないでしょうね)。
 トイレだけでなく、教室移動も、体育の着替えの時も、ちょっとしたおしゃべりも、気の合う「決まった一人の相手」を持たないとかっこわるい。それは、まわりじゅうが配偶者持ちで、みんなが二人ずつ組になって、楽しそうに夫婦の会話を楽しんでいるのに、自分一人だけ独身で話し相手がいないから、その時間をだんまりでやり過ごさねばならない感じといったらよいか。
いや、もっと厳しい。独身は独身でかっこいい。それ以前の「同性の友達さえ持てない、かわいそうな孤独な子、イコール人間として本当に価値のない、居るだけ無駄な子とみんなに見られている私」なのだ。それを想像してみるだけでも怖かった。
 あるとき、喧嘩をしたわけでもないのに、いつも一緒に居てくれたA子ちゃんが心変わりをして、B子ちゃんと一緒に居ることにしたらしく、私は一人になった。学校でうろたえたらよけいにみじめだと思って、平気を装ってその日をやり過ごした。家では、仕事から帰った母の膝に顔をうずめて、さめざめと泣いた。
それは後に経験した失恋(プラトニックだけどね)の痛手よりも大きくて、本当に苦しかった。でも失恋の時、過去に女の子で「練習」してあってよかったと、やはり母の前で泣きながら、ちゃっかり思った。
 女の子ペアからはじき出されて一人になったら、この上ない屈辱で、人の哀れみを一身に受ける、みじめな子になると思っていたのが、自分がなってみたら、全然そんなことはなかった。第一、私が一人だろうが誰かと一緒だろうが、誰も気にしていないようだった。
それに、よく考えてみたら私自身が、一人で居る女の子を、哀れんだり軽蔑したりするつもりが全くないことに、初めて気が付いた。自分がそんな人間だとこれまで思っていたのか? たとえ自分のことだとしても、見くびらない方がいいよ!と思った。それに友達(ステディ以外の女の子たち)だって同じことだ。これまで何をあんなに先回りして心配したのかと、気が抜けた。
 A子ちゃんやB子ちゃんは、「取った」「取られた」の対象になりやすい、緊張をはらんだ、華やかで人気のある女の子たちだった。人様からの取り合いの対象になり得ない地味な私も、A子ちゃんと一緒に居さえすれば、価値が上がるような感じの。
緊張組を離れて、のんびり組のC子ちゃんやD子ちゃんと、あまり固定的でなく一緒に居るようになってみたら、世界ですてきな女の子はA子ちゃん一人しかいないぐらいに、ずっと思ってきた熱も冷めた。
 当時の自分を思い出すと、スマホ仲間にしがみついている子どもたちを、たしなめることはできない。もし自分がスマホで仲間はずれになったら、もう生きていけないほど誇りがずたずたになって、自分の存在意義の根底が揺らぐと信じ込んでいる子どもたちの気持ちを、私も確かに知っていたと思う。だから、外から「そんなのは、ばかばかしいからやめなさい」と言っても届かないだろう。でも「そこから自覚的に離れたら、『なーんだ』ってなるよ」というのは事実。
 さて、今の子たちが、学校友達と、放課後もスマホでつながり続けたがる(つながり続けざるをえない)不自由について考えていたら、江戸時代の「五人組」と、その復活型、第二次世界大戦中の「隣組」を思い出した(小学校で習った)。かつてお上に言われて、人々が互いに監視し合うための組織を「作らされた」のだったが、今は誰も強制していないのに、自主的に、スマホという相互監視装置によって、長時間の相互思想管理を徹底させている。
なんだかとても不気味な感じがする。子どもたちだって、多分「ちょっと嫌だな」と思いながら、「でも、仕方がないのよ」と思って、我慢して続けているだけではなかろうか。真冬だというのに制服のスカートを短く履いている子が「ほんとは寒いから、もっと長いスカートがはきたいんだけど、みんながこうしてるから、仕方なく」と我慢していると聞いて、なんて克己心の強いがんばりやさんたちだろうと、感心しながらあきれた。私の「寒くてかぜひいた」を「みんな」にかばってもらえるわけじゃないのに。
スマホによる時間の浪費は命の浪費だ(「命とは時間です」by日野原先生)。「みんなの」残り時間は、平均あと70年でも、「わたしの」残り時間はあと10年かもしれない。少なくとも、その若さ美しさういういしさと共に在る時間は、誰にも等しく短い。自分の時間は、できるだけ自分の意志で使ってほしい。
 現代の五人組、スマホ版相互監視制度が不気味だと思う人は、本業(べんきょうとルビを振る)に逃げようね。全寮制の受験校や、囲碁将棋のお弟子さん達は、個人用のテレビラジオパソコンスマホなどの持ち込み一切無しの環境で、生活していると聞く。自分が本当に大事に思うことへの集中力を育てるには、今やそこまでしないとだめなのだろうか。なんとか親が守ってやれるとよいのだけれど。