2015年5月10日日曜日

蛾が怖い~皮膚感覚についてⅠ



 バッタなら、今でも手でつかまえることができる。草の中を歩いてバッタをピョンピョン跳ばせて、ひょいっとつかむの、楽しいよね。ほっそりしたハナグモを、下からすくい上げて、ちょっと眺めて離すのも楽しい。トンボもこちらの敏捷性が追い付けばマル。カエルをさわるのは今ではちょっといやだな。アマガエルならいいけれど。子どもの時はトノサマガエルもトカゲも、青虫も、モンシロチョウもアゲハチョウもセミも、平気で手で捕まえていた。
一番好きなのは、壁に張り付いて、泥をかぶって保護色になっているツチグモの巣を探すことだった。見つかると、ドキドキと嬉しい。はかなく弱いぼろ布でできたようなその巣の上端を、慎重に壁からはずす。巣に破れ目が入ったら、すぐ逃げてしまうから、気づかれないようにせねばならない。それから、地面に埋まった部分を、そうっと引き出す。これはかなり難しい。途中でちぎれたら、それでおしまい。袋状になった全体を引き出すことができると、ものすごくうれしかった。手のひらの上で袋を破ると、小さなツチグモが手足を縮めている。軽く触ってから逃がす。
最初の子が生まれたばかりの時、彼女の足の小指を触った妹が「ツチグモのお尻みたい」と言ったのが、最上の褒め言葉に思えた。可愛い、いとしいものを表すのに、こんなにぴったりの表現はないのだから。
 クモがせっかく作った巣を壊して、かわいそうじゃないのー!ということは、ただの一度も思い及ばなかった。ゴメンね。ただもうこの遊びが楽しくて、泥色の壁ぎわを、かがんでぐるっと探して歩いた。
 大きくなるにつれてその遊びも忘れ、でも巣がありそうなところに行くと、目で探すことは続けていたらしい。東京に住むようになったら、ツチグモが居そうな場所そのものがないのに気づいて、帰省すると積極的に探すようになった。おじいちゃんの家の壁からは、ツチグモの巣がだいぶ減っていたが、神社の石碑が立っている石積みのところには、まだまだたくさんあった。昔取った杵柄をもういちど。張り切ってツチグモとりを試みるが、成功率0%。あんまり下手なので驚いた。子どもの時は何も考えずに、ものすごく器用に力加減をしていたのだと気が付いた。もうだめなのだろうか。その後何度か試みるが、一度も成功しない。悲しい。
 小学校低学年の時、図鑑を見ていたら、「蛾の中には毒を持つものがある」と書いてあって、とたんに蛾が怖くなった。追わなくても、自分からひらーと逃げる蝶はユルス。追ってもばたばたそこにとどまって、逃げようともない蛾には、もう絶対に絶対に近づかない。そう決めた。
するとどんな小さな蛾も、全部全部怖くなった。だいたい「蛾」という字も怖い。「ガ」いう音も怖い。「鱗粉」という字は蝶でも怖い。一見地味なのに、よく見ると凝った模様のある蛾の羽は、相当に怖い。人の顔のような模様があるなど、言語道断。図鑑の蛾のページは、ゼムクリップで数か所丁寧に閉じて、以後うっかり見えないように努めた。
妹に「おねえちゃん、目つむって。手、ここに置いて。目開けて」と言われて、自分の手が蛾の写真に触っていると知ると、ギャーギャー泣いて怒った。夜、網戸を閉める前に電気をつけるとワーワー怒って電気を消してから窓を閉めた。
 「蛾が怖い」は、ずいぶん長く続いた。心底本気で怖かった。高校の時に読んだ『リンバロストの乙女』という少女小説に、美しい蛾が出てくるのを、チリチリと嫌な鳥肌が立つ思いで、我慢して耐えた。お話の先に進みたい気持ちが、辛うじて勝っていただけで、もうちょっとつまらない話だったら、やめていた。
お産して数年経ったある日、蛾が昔のように怖くなくなっているのに気付いた。蛾への徹底的な忌避は、多分、女神のダイアナが、自分の裸体をうっかり見てしまった猟師を、殺さずにいられなかった心情に通じるところがあったのだろうと振り返る。つまり、少女にはつらいことも、オバサンになれば平気なのである。
 その後、椿の枝を整理していたら、チャドクガにやられてそいつを本気で嫌いになったのは、また別の話である。