2015年5月9日土曜日

科学者の子育て



 「子育ては大脳の新皮質でやらないで、旧皮質でする」「自分が育てられたように、子どもを育てる。理屈ではない」などと聞いたことがある。町では、ただ自分が偉そうにするためだけに、口ぎたなく子どもを叱る親を見かけることがある。夫がそういうことをしたらいやだなあと思っていたが、杞憂に終わってありがたかった。それは、小鳥のおかげである。
 自転車通学をしていた高校時代、田んぼ道に文鳥のひなが「落ちている」のを見つけた夫は、拾ってきて自分で育てた。一羽では寂しかろうと、もう一羽買ってきたら、何度もたまごを産んで、ひなが孵った。手乗り文鳥にしたいと思って、それにはどうすればよいかを、小鳥から習った。
 決して脅かさない。水やえさのお世話で手を出すときは、上から手を伸ばして影を作るとおびえるため、必ず小鳥より下の位置から、すくい上げるように伸ばす。小さな鳥は、自分より大きな鳥に捕食されないように、まずは影で判断していたのだから、おびえるのは当たり前。「こんなことぐらい、怖いはずがないっ!」と叱るのは、全くの無意味である。
 普段気を付けていても、一度気を抜いて、相手を怖がらせてしまったらもうだめだ。体は育つが、こちらの手に載りたがるほどの信頼は、二度と回復できない。だからいつも優しく繊細に接する必要がある。
 支配的な態度や、高圧的な態度は、一瞬にして関係を壊す。小鳥だから、つついたり暴れたりして、こちらを痛い目にあわせてくることもあるが、決して短気を起こさないこと。
なんとなく、鞭を振り回して「手乗り」という芸を教え込むのかと思っていたが、違うらしい。小鳥がこちらを大好きになって、「こいつの手や肩になら、停まってみたい」と思ってくれるように、そっと育てるのが、唯一の方法だとか。
 夫はそれらを、自分の子育てにも応用してくれた。支配的な態度や、高圧的な態度は取らない。子どもが何かを嫌がったり怖がったりするのは、命を守るために必要だからしている。「そんなはずがない」と、大人が理屈で封じ込めたり、笑い飛ばしたりしない。優しく、愛情を持って育てる。
 身の回りの事象を観察する、記録する、それをもとに考える、得たことを自分のものとして生きる。科学者とはこういう人間のことだと、私は夫を通して学んだ。
 ある日、夫は突然「わかったぞ!」と言った。「人間が生きる目的は、子どもを育てることだ」。
 それまでの自分は、一生懸命勉強して、それを仕事に就いて、一生懸命働いて、たくさん論文を書いて業績を上げて、世のため人のために役に立つことを、生きる目的だと思っていた。そのために、物心ついた時から努力してきた。しかしそれよりもっと大事なことがある。いくら立派な仕事をしても、死んだら終わり。自分自身を、次の時間につなげていかなければ、意味がない。子どもだけが、ほんとうにそれをしてくれる。
 夫と私二人して、命がけで子どもを育てた。3人の子どもたちが、大学生と高校生の頃に、夫は言ったものだ。「子どもたちはもう、自分よりずっと上等の人間になってくれた。彼らにはまだ稼ぎがないから、かろうじて私は親のような顔をしているけれど、人間の出来としては、とっくにあっちの方が上」。
 本当にそうだった。ありがたいことだ。
 それ以降、私どもにとっての子育ては、過去形の他人事のようになっている。
あるとき私が仕事で、「子育て支援は、子どもの一時預かりや、保育所の増設じゃないんだけどなあ」とぼやいたら、夫が言った。「ペットショップで犬猫を買ってきて、餌代、預かり代を自分で負担して、肝心の犬猫を人に預けておく人はいない。自分で可愛がりたいから買ってくる。人間の子どもは、犬猫よりもっと、自分で可愛がりたいから生むのではないか。子どもの『お預かり』を充実させて、子育てを楽しむ時間を親から奪うことが、『子育てを支援した』ことになる? わからん」。私もわからん。